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木村輝久「きらめき」 2012年2月号

GDP成長至上主義からの脱却と経済学の新時代

人類誕生以来その歴史は飢餓との戦いであった。然るに、現在多くの先進国では過食、
飽食の時代、人々は肥満、メタボとの戦いに金を使う時代を迎えている。
社会経済学の面から考えると、近代社会では、国家の富を如何に増やすかが、施政者
の最大の課題とされてきた。たが、富の蓄積が進み、物資に恵まれ生活が豊になるとと
もに、人々は物質的な充足感から精神的な幸福度を高めることを求めるようになる。こ
れは自然の帰結である。そして、先進国では人口の減少、資源の枯渇問題、環境汚染、
地球温暖化、格差問題など新たな課題を如何にクリアーするかが求められている。
世界大恐慌時の1935 年に出版されたエッセイで、ケインズは「経済問題が本来そうで
あるべきように、余り重要な問題ではなくなる時期が近づいている。我々はその頃、本
当の問題に心を用いるようになる。本当の問題とは人生と人間関係であり、創造と行動、
宗教などの問題である。人々は差し迫った経済的な心配から開放され、余暇時間をどう
過ごすかという永遠の問題に直面するであろう。そして如何に賢く、満足して良く暮ら
すかという問題に取り組むであろう」と書いている。余談だがケインズの予言好きは有
名で、第一次世界大戦後のベルサイユ条約を批判して、ドイツに過大な賠償を課すと、
混乱とインフレの後に必ず独裁者が現れると予言した話は有名である。また革命直後に
訪れたロシアでは、共産主義社会が極めて非効率な体制であることを見抜き、これは長
続きしないと予言。さらに資本主義についても、個人の自由を尊重するという点で優れ
た体制だが、社会的正義と安定が、いずれ政治の重要課題になるとも予言している。
先月末に行われた日本証券経済倶楽部の研究会で、立教大学の福島清彦教授から「国
富論から幸福論へ」というテーマで、GDP 至上主義に対する反省から新たな経済指標作
成の模索が進められているという大変興味深い話を聞いた。そこで、先生の受け売り的
な面があることを予めお断りして、今月の『きらめき』で取り上げることにした。
「1776 年に出版されたアダムスミスの『国富論』以来続いてきた国富偏重時代を終わ
らせる大きな出来事が三つ、2010 年3 月に起きた。スティグリッツ委員会の報告書が出
たこと、EU が経済成長を目標にせず、人間の幸福度向上を目標にする長期戦略を採択
したこと、米国政府がGDP を超える新経済指標の開発に着手したことである」、「経済政
策の目標を、経済規模拡大だけでなく、個人の幸福度向上を重視するという新しい方向
に変えることは、欧米がこの数年来別々の経路で開発を進めてきた。個人の幸福度を重
視する経済理論体系の下で、幸福の進展度を計測する新経済指標の開発も始まっている」
と先生は言われる。

因みにGDP は、個人消費+個人住宅投資+政府消費+政府公共投資+企業設備投資+
輸出-輸入の7 項目が全て金額ベースで表示され、前年比が算出される。
スティグリッツ委員会の報告とは、フランスのサルコジ大統領が2008 年2 月、GDP
成長率での経済政策の成功度評価に疑問を感じるとして、米国コロンビア大学のスティ
グリッツ教授に、GDP に代わる新しい指標の作成を依頼、世界各国の識者25 名で構成
する委員会が1 年半かけて作成したものである。
2010 年2 月、サルコジ大統領とドイツのメルケル首相は、共同声明で、スティグリッ
ツ委員会報告に基づいて経済成長を計測する具体案を、EU で作成することを提案した。
その後に策定された「ヨーロッパの2020 年戦略」に、雇用、研究開発、気候変動、教育、
貧困の5 項目について数値目標を掲げたのは、前述の通りで、経済成長率の数字は何処
にも見当たらない。経済政策の目標は自国の経済規模を拡大することではなく、国民の
幸福度を高めることにあるとする新しい経済思想に基づいて作成された画期的な戦略と
言ってよい。
米国でもオバマ政権下でGDP を超える新指標開発を連邦政府に義務付ける法律が制
定され、2018 年までを開発期間とし、教育、健康、治安、経済発展の持続可能度など、
GDP とは直接関係のない指標の作成が進められている。
欧米で、新指標開発が進められる背景の第一は、先進諸国の国民の多くが金銭所得以
外の幸福度増大を求めるようになって来たこと、第二に人口の減少で高い経済成長が期
待できなくなったこと、第三に、低経済成長下でも成長が見込まれる個人の教育水準、
健康維持、家庭環境など全要素生産性と呼ばれるものの成長が高くなっていることなど
である。このため先進国では、個人の幸福度増大に政府が投資する必要があると考えら
れるようになってきた。同時に医学、心理学、経済学、政治学の研究進展で幸福度の計
測がかなり可能になって来たこと、米国の戦略変化、即ちオバマ政権が米国型福祉国家・
環境対応国家作りに向けて方向転換を開始し、戦略の進展度を測るための新たな指標が
必要になったことも、その理由である。
ところで、我が国の現状はと言うと、この問題についての取り組みは遅れていると言
わざるを得ない。2010 年暮れに内閣府が第一回幸福度研究会を開催、昨年暮れに幸福度
指標試案が発表されたと聞く。急速に進む少子高齢化、2060 年には人口が2010 年比で
32%減少することなどを考えると、経済成長率2%の中期成長戦略もさることながら、国
民の幸福度増大戦略策定を急ぐ時代になったことは間違いない。前述の福島先生は「幸
福度の経済学は福祉国家を作る際の理論的支柱となる。国家の長期戦略にはやはり数値
目標が必要であり、そのために健康度、教育水準、社会的資本という三つの重要な超GDP
数値の現状測定を始めるべきである。健康度、長寿度、など既に世界最高水準にあると
思われる指標がある。一方でさらに高める項目についての目標数値を示すことが出来れ
ば、国民の自信、満足度、達成感とやる気が高まる可能性がある。さらに超GDP 諸目標
達成には政府資金投入が必要である」と語った。
筆者は、個人とって最も大切な健康度の国際比較が可能となる新しい指標、収入、健
康、人生における達成感などに大きく影響する教育度の指標、加えて、家族や他人、組
織や社会との連帯感の強弱も幸福度に大きく影響することから、そういった新しい指標
の登場に強く期待している。 (以上)